丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(以下、MIMOCA)では、2022年4月2日(土)から2022年7月3日(日)まで、「生誕120周年記念 猪熊弦一郎回顧展 美しいとは何か」を開催しています。開催を記念して、軽井沢病院院長であり山形ビエンナーレ2020の芸術監督をつとめた稲葉俊郎さんへのインタビューをお届けします。

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撮影:宮脇慎太郎

ー今回、半分の空間ではキャプション(タイトルや解説)を排除して、見たい人はパンフレットで確認するという展示方法にしましたが、どう感じましたか。

稲葉
あの展示方法は素晴らしいと思います。僕は普段からキャプションを見ないのですが、人間の性として、あるとどうしても見てしまうものだと思います。
キャプションには功罪があって、解説を見て頭の中でわかった気になってしまう場合がありますから。本来は、自分の感性を総動員して絵と対峙することで、見る人それぞれに受け取るものが異なるはずです。
見ていると、心が動いてくるんですよね。パッと感じた瞬間的な感性だけではなく、ずっと見ていることで心の中がゆっくりと動いてきて感じられるものもあります。自分の心が動いてくるのをゆっくり待つんです。じっくりとその動きを愛でるように体験してみる。その時、心の中でなにか聖なる体験が起きているんでしょうね。心の化学反応のようなものでしょうか。

ーひとつの絵をぼーっと見続けることは、なにも考えていないようで、実は絵とやりとりしているみたいなイメージでしょうか。

稲葉
そうです。普段から心の動きを観察していないと、そうした微細な心の動きはわかりにくいものです。
いのくまさんの絵は心の反応が起きやすいから、あまり絵をじっくり鑑賞する習慣がない人でも「なにか違うな」という印象があるのではと思いますね。表層的な感情がかき立てられるのとは違い、もっと心の深い場所が動くんです。いのくまさんの絵は自分にとっても未知の深いところが動くのを感じます。人間の心の深い場所を観察しているときと似た現象が、自分の中で起きている。心の深みを感じながら絵と対峙しました。

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撮影:宮脇慎太郎

それが心を掃除しているのと同じようなことというのは、とても納得できます。

稲葉
日本語で言うと「おさまる」という語感が近いかなと思いました。適切な場所に物事が「おさまって」いく。「おさまる」にはいろんなニュアンスがあると思うんです。
災害がおさまる、感染症の猛威がおさまる、鎮魂も「魂を鎮める」と書きますが、「魂がおさまる」感覚に通じるものかもしれません。死や別れの悲しみも、時の力であるところに「おさまる」ものです。
そうした「おさまる」に近い感覚を、いのくまさんの絵を見ながら感じていました。自分の心の中にはごちゃごちゃしたものがたくさんありますが、そうした雑多なものが心の空間で適切に「おさまっていく」感覚を受けたんです。

猪熊の言葉でいう「コンフュージョン&オーダー(混乱と秩序)」ですね。

稲葉
そうですね。世界は今、すごくコンフュージョン(混乱)していますが、力で制圧するのではなく、絵画の中ではコンフュージョン(混乱)がオーダー(秩序)されておさまっているのです。
例えばいのくまさんの絵の中にある赤い大きな円をウイルスや戦争など強い力のシンボルのように見た時に、赤い円は完全に区切られずに空間の一部を空けて共存しています。
これは、何か巨大な力に対してのコンフュージョン(混乱)ではなく、ひとつのオーダー(秩序)なんですね。この配置であれば落ち着きますよね、おさまりますよね、と、いのくまさんの言葉が聞こえてくるようです。こうしたおさまり方は、高い次元での調和のあり方ではないかと思いますね。

絵画という限定された世界を介して、いのくまさんの絵を見れば見るほど心が成長するように思います。そうした次元も包み込んでいる画家だったんだろうと思いました。「癒やし」というやわらかい言葉ではなくて、もっと強く野性的で、それでいて朗らかで伸びやかなもの。どんな辛い環境でも、たくましく生きていくためのもの。
そうした意味で「美術館は心の病院」という言葉を残したのではないでしょうか。どんなに打ちのめされても、うちひしがれても、心が新しい高次の調和を求めて次のステップに向かって生きていくために。

パリ、ニューヨーク、ハワイと世界を見てきた彼は、きっと嫌な思いもしながら、いろんな強さがひしめき合う中で調和を求めたのでしょう。高い次元で多様なものが共存し、厳密なる均衡の中に美しさがある。すごく勇気をもらった気がします。

ー猪熊は「美術館は心の病院」ということで美術や美術館を拡張していますが、稲葉先生は医療の立場から共感なさることがあると聞きました。

稲葉
いのくまさんは美術館を病院に拡張しています。逆に僕は病院を美術館に拡張しようとして考えています。
そうした発想で作ったのが、軽井沢病院での「おくすりてちょう」です。最初に500冊作りましたが、表紙には全て違う絵が描かれています。すべて障害をもった方々の手描きです。
この絵は、あるイメージを投げかけて、それぞれの描き手が内部に湧き起こったイメージの世界を描いている対話的なイメージです。投げかけたイメージが何かは、あえて言わないようにしています。先入観を持って絵を見てほしくないので。

「おくすりてちょう」の中は白紙です。医者が出す処方箋のシールを貼る通常のお薬手帳としても使えますが、「自分にとってのくすりはなんだろう」「大切なあなたのくすりはこういうものではないか」と、身近に「くすり」を考えるきっかけにしてほしいと思っています。大切な人や家族にとっての薬は何かと考えて、メッセージを書き込めるようにしています。そうしたコミュニケーションツールとして、世界で一つだけの「おくすりてちょう」です。絵がすべて異なり、ひとつひとつにシリアルナンバーを刻んだのも、わたしたち人間は、一人ひとり個性がある、ということの間接的な表現です。

僕は2022年の4月1日付けで軽井沢病院の院長になり、新しいチャレンジをしていこうと思っている矢先に、今回の展示を見て大きな力をもらいました。いのくまさんが掲げていた高い目標を、自分も掲げます。もし自分が生きている時にわかってもらえなくても、絶対にその種を受け取る誰かがいるはずだからです。そうした力強い、いのちのメッセージを、僕はいのくまさんの絵画から受け取りました。勇気づけられ、いのちを呼びさまされる、素晴らしい展示でした。
丸亀に住んでいる皆さんは、本当に幸せだと思いますよ。

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軽井沢病院の「おくすりてちょう」

■プロフィール
稲葉俊郎(いなばとしろう)
1979年熊本生まれ。医師、医学博士。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、2020年4月より軽井沢病院に勤務、2022年4月院長に就任。山形ビエンナーレ2020の芸術監督をつとめるなど、医療と芸術を同じ地平にとらえた活動も行う。著書に『いのちを呼びさますもの』(アノニマ・スタジオ、2017年)、『ころころするからだ』(春秋社、2018年)、『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ、2020年)など。
https://www.toshiroinaba.com

(企画展ページ)
猪熊弦一郎回顧展 美しいとは何か|企画展|MIMOCA 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

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