今回のMIMOCAマガジンでは、猪熊弦一郎と版画家・棟方志功(1903-1975)の交流を示す収蔵作品を中心に、猪熊邸に集った棟方志功、勅使河原蒼風、勅使河原宏、ミシェル・タピエについてご紹介します。
二人の再会
当館では猪熊弦一郎の作品以外にも、猪熊旧蔵の他作家の作品や資料等を収蔵しています。
今回は猪熊と版画家・棟方志功(1903-1975)の交流を示す作品や資料をご紹介したいと思います。
いつから二人の間に交流があったのかは、現時点では不明ですが、互いの画業初期からいくつかの接点がありました。
最初の接点は、版画美術の振興を図ることを目的に岡田三郎助を会長として1931年1月に設立された日本版画協会です。
棟方は1932年に32名の新規会員の一人として迎えられ、猪熊も翌年の1933年に廣島晃甫、小磯良平、鷹山宇一とともに会員となりました。
2つめの接点は1936年の第11回オリンピック大会芸術競技への参加です。
二人とも版画作品で、猪熊は《射的》、棟方は《合同競争》《市民体操》の2点を出品し、「第11回国際オリムピック大会参加美術展覧会」(1936年3月28日〜4月3日 東京府美術館)、「第11回オリンピック伯林大会芸術競技展覧会」(1936年7月15日〜8月16日 ベルリン)、東京とドイツのベルリン、2カ所で展覧会が行われました。
二人ともベルリンには行っていませんが、東京府美術館の会場で顔を合わせることがあったのではないでしょうか。
続いてイサム・ノグチが残しているエピソードをご紹介しましょう。
1952年に猪熊と勅使河原蒼風が北鎌倉の魯山人邸の離れに住んでいたイサム・ノグチを訪ねた際に、亀倉雄策と棟方志功も魯山人を訪ねて来ており、みなで合流し、その中の誰かが、離れの畳(床)が抜け落ちるほど踊ったことがありました。
当人たちが大いに笑ったであろう光景が想像できます。
また、猪熊が渡米する前の1955年2月に棟方からもらったハガキには、いつも御恩を受けているのでお伺いしたいといった旨の文面が記されています。
このことからも、少なくとも1950年代初頭には親しく交流していたことが分かります。
以上のような経緯を経た1959年、ニューヨークにアトリエを構え精力的に活動していた猪熊は、ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招待で初渡米を果たした棟方と数年ぶりの再会を果たしました。
ニューヨークの棟方志功と猪熊弦一郎 撮影者不明
猪熊は渡米して4年あまり、作風は黒や白を基調とした抽象画へと変貌を遂げ、所属するウィラードギャラリーでは3回の個展を開催するほかアメリカ国内外の展覧会に出品していました。
ニューヨークでの棟方志功の個展
棟方は1月26日に横浜から貨客船・山君丸にて初のアメリカ旅行へと妻チヤ、息子の巴里爾と三人で旅立ちます。
サンフランシスコを経て2月にニューヨークに到着し、夏のヨーロッパ旅行を挟んで10月まで滞在し、11月15日に帰国ました。
その間、多くの展覧会に参加し、ウィラードギャラリーでも個展「SHIKO MUNAKATA Woodblock prints」(1959年3月31日〜4月25日)を開催しています。
自身にとっては二度目となる同ギャラリーでの個展でした。
一度目は1952年に柳宗悦がバーナード・リーチ、濱田庄司と共に渡米し、ブラックマウンテン・カレッジ他10余箇所の大学で講演と陶技実演を行った旅行の際にウィラードギャラリーで棟方の作品を展示しました。
作家不在で行われた海外での初の個展でしたが、この時にギャラリーのオーナーは棟方の作品に注目しており、1959年の棟方渡米を知るや個展が企画されたのでした。
案内状のデザイン
猪熊旧蔵資料の中に棟方の個展の案内状があります。
外三つ折り(Z折り)の後に二つ折りになった状態で「棟方志功」とだけ大きく印字されています。
「SHIKO MUNAKATA Woodblock prints」 案内状 折りたたまれている状態
案内状を手にした人は最初に棟方志功の四文字を目にします。
こちらを広げていくと、展覧会の情報が見えてくる作りになっています。
「SHIKO MUNAKATA Woodblock prints」 案内状 おもて面 サイズ 35.3×35.3cm
中央部分に文字が集中的に配置されています。
一際目立つのが端から端まで大きく記載されたSHIKO MUNAKATA、次いで個展の開催場所であるwillard galleryの文字です。
これらはシンプルで落ち着いた印象を与えるHelvetica(1957年発表)のフォントが使われています。
ではその次に目に飛び込んでくる文字はいかがでしょうか。
個展のサブタイトルでもあるWoodblock prints、期間を示すMARCH 31- APRIL 25、住所を表す23 West 56 ・ New York City、これらは幾何学的な形で洗練された印象を与えるFutura(1923年発表)のフォントが使われています。
フォントや色味の使い分け、余白の使い方などかなり気を配られたデザインです。
「SHIKO MUNAKATA Woodblock prints」 案内状 裏面 サイズ 35.3×35.3cm
裏面には棟方の《追開心経頌》全16柵(1957年)のうちの1点《追開心経頌 自在の柵》が印刷されています。
観自在菩薩と文様、般若心経の経文が配置された華やかな構図です。
棟方は出来上がった案内状を見て
「實に見事なもので、眞から有難いものでした」(『藝術新潮』1959年5月号 p.111)
と感想を述べています。
では一体誰の手によるデザインなのでしょうか?
もうお分かりですね。
そうです、猪熊によるデザインです。
猪熊は作品の陳列でも金槌、釘、物差、水平器、鋸まで用意して尽力しました。
棟方のニューヨーク滞在中は日本の画家の中では猪熊夫妻だけと毎日行き来したり語り合ったりする間柄でした。
ウィラードギャラリーの個展の出品作は、
《萬朶譜》(木版・紙 1935年)、《二菩薩釈迦十大弟子》(木版・紙 1939年 1948年一部改刻)、《運命板画柵》(木版・紙 1951年)、《流離抄板画柵》(木版、彩色・紙 1953年)など50点が展示されました。
中でも《二菩薩釈迦十大弟子》は1955年のサンパウロ・ビエンナーレ(版画部門最高賞受賞)や1956年のヴェネツィア・ビエンナーレ(版画部門グランプリ受賞)に出品され、棟方の代表作として知られていたものです。
展覧会にかける意気込みがよく分かります。
棟方志功《玄関》
さて、当館の収蔵する棟方作品がこちらです。
ガラスカバーの反射があり若干見づらいですがご容赦ください。
棟方志功《玄関》1959年 紙本墨書 サイズ 78.0×145.5cm(額)
迷いのない筆致で力強く描かれた線には気迫が満ちています。
「玄関」は棟方が好んだ言葉で、倭画や書でたびたび書きました。
仏教用語で「玄妙な道に入る関門」の意味で使用していました。
深遠な仏道修行への入り口といった意味合いでしょうか。玄関とは、元々は玄妙な道に入る関門として寺院の書院の昇降口を指していたのが転じて、建物の正面に設けた出入り口のことを差すようになりました。